KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

視聴率を一般公開するのは止めてしまえばどうだろう【ウンコな批判をなくすために】

 視聴率とは、あるテレビ番組をその地区のテレビ所有世帯のうち、何パーセントが視聴したかを表す推定値である。一般に公表される視聴率というのは、世帯ごとのものである。

  またみなさんもご存じのとおり、視聴率を測定する対象となっているのは、ごくごく一部の世帯である。むかしみたいにひとつの世帯のお茶の間に一台しかなく、ビデオも普及していないころならいざしらず、いまの時代においてなんの意味があるのか。

 このようなかたちで測定された視聴率を必要とするのは、テレビ局と番組スポンサーぐらいではないだろうか。番組スポンサーにとっては、生でどれだけのヒトがCMをみているかを可視化するのは大事であるからだ。

 だが現実は異分野からの番組や芸能人個人への攻撃に利用されている。それがネットにはびこる芸能ニュースのたぐいだ。結果が出せなきゃ批判されて当然という意見はあるだろう。だがその批判することで金をもらっているニンゲンもいるわけだ。

 こういったネットの芸能ニュースというのは、視聴率を根拠に論評を加える。なかには”低視聴率=駄作”なのであるから、なにをいわれてもテレビ局や芸能人はうけとめるべきだという”お客様は神様だ”論を振りかざすのだ。

第1話で長瀬も韓国語を話す場面が多く見られた。しかし、ドラマを見ていた視聴者からは《韓国語は予想通りの日本なまり》、《韓国語が下手すぎる》、《長瀬君の韓国語に笑った》、《草彅君に韓国語を教えてもらえば良かったのに》とインターネット上に多くの酷評が投稿された。
ドラマの評価も《演技の間が良くなくて、引き込まれない》、《硬派ぶった雑な作り》、《韓国ドラマが原作なだけあって重い》、《長瀬くんの前髪の感じが慎吾のドク》、《草彅主演だったらまた違うんだろうなあ》などと否定的な意見が多く見られた。

 
 こうやって本当にあったかどうかもわからないような”インターネットの酷評”を並べたて、わたしの意見こそが多数派なのだと演出する。そしてハナっからやり玉にあげられた芸能人をバカにしているニンゲンの興味をひいて広告収入を得ようとする。

 だが本文中にある”他人の意見”を差っ引いてみると、まったく中身がないのである。記者の意見はどうなのかと。結局、”低視聴率の駄作なんだから批判されても仕方ないでしょ(この記事で広告収入もらうのは内緒)”という思惑しかみえてこない。

 こういう記事しか書けないで、それで収入を得ようとするネットニュースばかりが跋扈するならいっそのこと視聴率など公開しないほうがいいのかもしれない。そのほうがよっぽど書くニンゲンのレベルもあがるというものだ。

 いまのネットニュースの芸能記者たちは、寄生するダニとしかいいようがない。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。