なにゆえ大学に籍を置いて哲学を学ぼうとしているのか。それは死ぬための準備といえるだろう。子どものころから死生観というのは、いつもテーマとして持ちつづけてきた。集大成とまではいかなくとも、ある程度まとめられたらと考えている。
”自分探しの旅”をしたり、したいと願っている人がいる。”自分”っていったいなんだろう。これは加藤秀俊先生の受け売りになってしまうのだが、”自分”というのは、らっきょうみたいなものらしい。
参考文献
むいてもむいても結局さいごは核など出てこない。”自分”とは何かというのに、答えなどないのである。だから旅をしても”自分”は見つからない。でもこうばたけんは考える。旅をすることで、大きくて食べでのあるらっきょうになるのではないかと。
だからもし自分探しの旅がしたいという人がいたら、とりあえず行けるところに行ってみればと答えたい。これに関しては、結果よりも過程のほうが重要なのだ。どうせ結果など出やしないのだから。
”自分”なんて見つからなくていいのだ。それが結論である。どうせ死んだら無になるとはいわないけど、いちどリセットされるのだ。そこから”自分”はどうなるかはわからないけど、いろいろな可能性は考えられる。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。