功利主義は悲しみに暮れる少数派を救えるのか

 基本的な考え方は、『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだと言うもの。正しい行為や政策とは「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)をもたらすものであるとジェレミ・ベンサムは論じた。

  たとえば日本人が中東でイスラム教徒に殺害されたとき、憎しみからはなにも生まれないと説いた人がいた。また死刑制度に反対する人がいる。その両方にたいして、共通する疑問のようなものを持っていた。

 それは”この人は殺された人の家族についてどう思っているのか”ということだった。どうも無視しているように見えてしまうのだ。以前からもやもやしていたのだが、本を読んで功利主義というコトバを見つけたときに、ちょっとした個人的発見をした。

 基本、憎むなとか死刑は反対だという人は、最大多数個人の最大幸福を願っているのだなと。それを実現するためには、最小少数個人の不幸なんか知ったことかということなのだろう。

 今のは言葉が悪かったが、黙殺しているといえばいいだろうか。ただそれは間違っていると単純にはいえない。でも単純じゃないからこそ、そういうことに対して常に疑問を持ち続ける姿勢が大事だ。

今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。