昭和のテレビコマーシャル
この7月から8月にかけて、さまざまな人の訃報を目にした。作曲家の小林亜星さんもその1人で、また昭和の象徴のような人が1人というかんじである。亜星さんが亡くなってから、あるどこかで聞き覚えのあるCMソングを耳にした。
またマイペースでボチボチ書いていきますので、引き続きよろしくお願いします。
ラーマ奥様インタビュー【昭和CMで思い出に浸ろう】 いろいろな奥様が登場するけれども、みんなが共通して言うのは、うちではいつもラーマを使っていますということ。子どものころは、なにげなく観ていたけれども、大人になったいまとなっては、わざとらしさ…
スカイラインは昭和32年に初代が発売され、現在で13代目になる。ぜんぜん車は詳しくないのだが、子どものころ自動車の造形そのものが好きだったので、つねにトミカを持ち歩いていた。お気に入りは4代目、俗にいう”ケンメリ”であった。僕と同い年である。
前回の記事で、忌野清志郎とタイマーズが、NHKで企業名の入ったコマーシャルソングを歌ってしまったというハナシを紹介したのだが、実はもう一つ、一般的にそれやっちゃダメでしょということがあった。
前回書いた”ビバ・エメロン”のコマーシャルの前にやっていたのが、一連の”ふりむかないで”シリーズであった。”ふりむかないで”というのは、ハニー・ナイツが歌うコマーシャルソングの題名である。
むかしはふつうに使われていたコトバなのだけれども、そもそも”ビバ”ってどういう意味であろうか。調べてみたら、イタリア語で”バンザイ”という意味なのだとか。いまやビバというコトバもビバホームぐらいしか使われなくなってしまったが。
写真ではわかりにくいけれども、この”トランジスタテープレコーダー”は当時(1961年)のコマーシャルの情報によると、一辺が約19cm。当時としてはコンパクトサイズであったのだろうが、かなりの大きさだ。いまあるカセットテープをみたらわかる。
不二家と聞くと、根拠はないのだけれど、高級感を感じてしまう。実は値段は庶民的なのだけれども、洗練されたイメージがあるのだ。パッケージデザインからして、他とはちがう。
日本には全国ネットの放送局のほかに、地方ごとにローカル放送局というものが存在する。どちらも民放であるから、広告収入で経営が成り立っている。すなわちCMを流さなければならないのである。
「どうだいお味は?」「まろやか~♪」 「もういっちょいくぅ~?」「うっす!」 子供のころに観た、夕方のテレビ東京のテレビアニメの再放送を思い出すよ。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。けどやはりどうも年末年始が仕事だと気分が盛り上がらないのだよ。なのでせめて子どものころの正月を思い出して記事を書いてみようか。
つい先ごろ、男性4人のボーカル・グループ、デューク・エイセスが解散された。名前を知らない人でも、”京都~大原~三千院~♪”という歌のフレーズは聴いたことがあるのではないかしら。
国鉄からJRになってはや30年。この「ディスカバー・ジャパン」のコマーシャルを観ていると、日本国有鉄道だったころと、民営化されたJRになったいまではずいぶんと様変わりしたね。
明治チェルシーは、昭和46年に発売されたキャンディー。いまでは定番商品だけど、当時の日本においては、まったく新しいタイプのキャンディーだったんだ。スコットランドの伝統的な製法でつくられたスカッチキャンディーというのだよ。
いまエバラ焼肉のたれのCMといえば、嵐の相葉雅紀である。余談なのだが、相葉君がお肉を食べている姿がどうもおいしそうにみえない。なにか食というものに淡泊そうなのだ。”肉食!”というかんじがしないのである。
今日7月7日は、公共広告機構(現・ACジャパン)のできた日なのだそうだ。「国民の公共意識を高めることを目的」とした民間団体ということなのだが、名前は知っていてもいがいとその目的は知らなかったりする。
日本におけるテレビCM史のなかで、資生堂のコマーシャルというのは、大きな足跡を残している。今日にいたる資生堂のブランドの力はコマーシャルによってつくられたといっても過言ではあるまい。
よく夕方のテレビ東京で流れていたCMというものがある。それが「ねるねるねるね」と「ケンちゃんラーメン」だ。それもかなりの長い間流れていた。この二つの商品名は、30年経ったいまも脳裡にやきついてはなれない。
平日の夕方にテレビをみているとそれはよくやっていた。いろんなところに出向いては、街ゆくヒトビトに食べさせて、そこで押阪忍さんがすかさずマイクをむける。ラーマゴールデンソフトのコマーシャル。あの場面ではさすがにマズいとはいえない。
国民的美少女コンテストといえば、さまざまな女優やタレントを輩出した登竜門であるが、その大本となったヒトがいる。それが後藤久美子だ。通称”ゴクミ”。いまの若いヒトのなかには知らないヒトも多いかもしれない。
このCMは小さいころから高校生のときぐらいまで、ずっと流れつづけていた。時間帯は夕方。だいたい日本テレビで、「磯村建設」のCMとよく前後して流れていた記憶がある。それが新栄電機のCMだった。
子どものころに、よく流れていた謎のCMがあった。ふつうCMといえば、なにかを売ろうとか、企業のPRをしようとするものだが、このCMだけは違った。それが日本船舶振興会(現・日本財団)のCMだった
ミユキ野球教室というのは、1957年から1990年まで、日本テレビ系列において、日曜日の午前中にやっていた番組である。この番組からスター誕生というのが、いつもの観る流れであった。
オープニングキャッチというのは、番組を一社提供するときに使われる特殊な提供クレジットの一つである。スポンサーが複数のばあいは、たいていまとめてブルーバックに白字で会社名が出る。
さいきんやっと、近藤正臣が枯れてきたおかげで、カレのことをしみじみ味わえるようになった。このヒトはエネルギッシュであり、コトバをかえれば暑苦しかった。
昭和50年代は千葉市の埋め立て地にある公団に住んでいた。洗濯機はというと、2層式というヤツで、おそらく団地の他の住民もそうだっただろう。ベランダに置いて使っていた。
健康器具「スタイリー」CMより
わたくし事であるが、ただいま禁煙中だ。禁煙治療をしているわけではなく、独力である。そういう状況下で助けてくれるのが、この禁煙パイポなのである。口さみしさをまぎらわせてくれる。
公共広告機構(現ACジャパン)CM「すててはいけない君の人生(1979年)」より ==== 1979 すててはいけない君の人生 君原健二さんは、1964年の東京オリンピックマラソン代表で、8位に入ったヒトさ。そう、あの円谷さんと一緒に出たわけだね。かたや銅メダ…