KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

清志郎と精神的自由

 昭和63年8月15日は、もうひとつの出来事があった。RCサクセションのアルバム「COVERS」の発売である。

 

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  ”COVERS”という題名どおり、洋楽のカバーアルバムなのであるが、ある曲が問題となり、一度発売中止になっている。問題の数曲のひとつが、「サマータイム・ブルース」であった。

 なぜ発売中止になったのかを簡単に説明すると、当時RCサクセションは、東芝EMIというレコード会社に所属していた。親会社の東芝は原子炉の製造会社でもあるわけで、”原発いらねぇ”という内容の曲の発表を許さなかったわけだ。

 

 当時の最高責任者はこう語っている。 

資本主義社会のルールでは、大株主である東芝の進言を無視するようなことはできない。そういう意味では、私は間違ってないんです。『出す』と言った清志郎も間違ってない。

 

 たしかに日本社会のルールに照らし合わせれば、どちらもまちがいではない。それが対立するのが、自由というものなのである。清志郎は精神的自由を守ったのだ。

 

 そして別のレコード会社から、”COVERS”は発表される。その日が昭和63年8月15日であった。昭和のころから、清志郎は”原発いらねぇ”と歌ってきたのだ。だがそのころ多くのヒトが原発について無関心であった。

 

 そういう経緯があるので、2011年の東日本大震災以降、原発に反対とかいって食の安全がどうこういうヤツの発言に対して鼻白むようになった。食べ物も福島産とか気にせずに食べている。

 福島を忌みて長生きしたあげくに認知症になるよりかは、それで早死するとしたならそれはそれで、いくぶん精神的自由があると思って。とりあえずいまはおかげさまで、清志郎の歌声に聴き入る自由は享受できている。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。