KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

”風評”に実体などない

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 そうなのだ。風評には実体がないからこそ、風評があると言っている側は証拠を示すことはできないし、誰からも示せといわれない。だから示さなくてもいいことになっている。

 

原子力災害の記憶の継承などを願って福島市の施設に置かれた現代アートに、「防護服姿は風評被害につながる」といった批判が寄せられ、撤去されることになった。放射線をめぐる地元の苦悩が浮き彫りになる一方、メッセージ性のあるパブリックアートのあり方を改めて考えさせる事態になっている。

防護服アート撤去に分断疲れ | mixiニュース

 

 ほんらい風評被害というものは、風評に罪があるのであって、モノにあるのではない。けれどもこうしたパブリックアートは、”カタチとしてあるモノ”だから、風評被害があると言い張るヒトの標的になる。

 

 作ったヒトが心をこめたパブリックアートを撤去しろというヒトは、みずから名前と出身地を公表すべきである。それにたいして反論するヒトもおなじく公表すべきだ。匿名の意見にパブリックアートを撤去する権限などない。

 

 匿名の意見に権限を持たせると、結局は策略を行おうとするニンゲンが勝つ。そして最後には勝ち誇った笑いと冷笑しか残らない。そしてそれらには新しいモノを作る力もなにもないのである。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。