KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

もうすぐ46歳 どのように老けていくかを考える

 自分のなかではまだ、はじまったばかりだと思っている。人生というものに2つステージを想定していて、2つ目のステージがはじまったというイメージだ。折り返しを過ぎると、見える風景はガラッと変わる。

 

  そうやって考えていくと、世代で区切ったり、壁を作ったりするのがナンセンスであるというひとつの結論に達する。ゆとりだとか老害だというような偏見でヒトを見ようとすると、見える可能性のあるものまで見えなくさせてしまう。

 

 たとえば自分より若いヒトに対して、近ごろの若い者はとか、むかしはよかったいまはダメだみたいな、”想いの共有”を阻害するコトバをぶつけるのは、公共的にも個人的にもあってはいけない。

 

 変に若ぶるというかそういうのではなくて、日々老けていくなかで、よけいなフィルターを取り除かなくてはということだ。そのフィルターは世代だけではない。性別もそうだし、宗教もそうだし。2つ目のステージで楽しく老けたい。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。