KOTOBASM

Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

”教養”について考えてみる

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 ”教養”とは、僕の手元にある新明解国語辞典によると、文化に関する、広い知識を身につけることによって養われる心の豊かさ・たしなみとある。

 

 

 

  教養はスマホで身につき、ググれば勉強できるものということなのか。それとも教養を身につけることそのものを否定しているのか。どちらなのかはわからない。

 

 ただいえることは、スマホで得られるのは情報であって教養ではないのではということだ。もう少しつけ加えると、情報というのはとりあえずの答えであり、教養はヒントであるということなのかなと。

 

 たとえば”人生とはなにか?”ということを考える。スマホで調べればいろんな”答”が出てくるかもしれない。でもそれがはたして自分に当てはまるのか。実は自分は自分であり、他人の意見が自分に当てはまるのかといえば、往々にしてそうともいえなかったりしないだろうか。

 

 生きていくなかでいろいろな経験をし、それが教養というヒントと合わさったとき、一筋の光明が見いだされる。それが完全に正しいということではないが、そもそも完全に正しいことなんてそんなにはないのだから、それでとりあえずはOKなのである。

 

 よく大学に行くことを否定するときに、”勉強なんてしないのだから”といわれることがある。でも勉強しないというのは、若者なのだから当たり前ともいえる。問題意識がないのが若者の特権なのだから。

 

 歳を重ねて来るべく老いを意識するようになり、ヒントを求めたくなることもある。そのときに教養をつけたっていいはずだ。そのために学校に行っても遅くはない。そういうヒトのために哲学というのはあるのではなかろうか。そう思われる。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。