KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

”TETSUGAKU”

 職場にフィリピン出身のヒトがいるのですが、そのヒトに大学でなにを専攻しているのかを聞かれました。

 

  そのヒトは日本語ができるヒトでありますから、最初に”哲学(TETSUGAKU)”といいました。しかしそのヒトは理解できませんでした。なので”フィロソフィア(philosophia)”と英語でいったら、一発でわかりました。

 

 僕たちは日本人として生まれて、ごくあたりまえのように日本語を使っています。ですが外国出身のヒトが日本で長年暮らしているからといって、日本語でいえば説明がつくかといえば、そうともかぎらないのです。英語の方がわかりやすかったりします。

 

 英語のphilosophiaを古代ギリシャ語にするとφιλοσοφίαとなります。なんとなくですけど、言語として近い感じがしませんか?それにくらべて日本語だと哲学(TETSUGAKU)なわけです。まったく別物の言葉ではないですか。

 

 そこがまた日本語のむずかしいところなのです。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。