KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

有名人のコトバについて思われる

 

 しばらくブログを休んでいたが、僕のなかのゲンロン脳みたいなものに、闘志の火が沸いてきた。はっきり言って、問答無用というのならこちらも問答無用で、ほっしゃんを待ち伏せしてナイフで刺したあと、そのナイフで自決してやろうかぐらいの勢いだ。

 

 むろんそういうことはやってはいけない。そのような行動は、自己中心的な正義の濫用なのであるから。問答無用であるのなら、だまってスルーしておけばいい。Twitterでブロックなんてよけいなことをするから、争いのタネのようなものが生まれる。

 

 ほっしゃんは有名人であり、僕は無名人である。それを前提にしていうなら、ほっしゃんは有名人であるから、影響力があるのだ。たくさんの無名人に注目され、Twitterリツイートされる。考え方の違う無名人の目にもコトバが映りやすいのである。

 

 そんなに自分の正義感が大事で反論は許さないというなら、わざわざTwittertweetする必要などないのだ。正義の大義が悪だと思ったらそれは大きなまちがいなのだから。

 

 まあそういうわけで、とりあえず影響力皆無の無名人がブログを更新してみたのであった。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。