KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

目を閉じて思われる

 日々電車通勤や通学をしていると、スマートフォンを見ているヒトをたくさんみかける。ゲームを熱心にやっているヒトがいるのだが、目が疲れるんじゃないかと心配になる。

 

 そんな心配している当ブログ記録者をよそに、スマホの画面をみながら電車を降りていく。途中でストップできないゲームなのかもしれない。または動画に熱中しているのかも。目も疲れるけど、脳も疲れそうだ。

 

 スマホから流れてくる情報というのは、膨大なものがある。たまにはスマホをしまって、目を閉じるのもいい。当ブログ記録者はそうしている。そうすることによって、情報を遮断し、目を休ませることができる。

 

 そして当ブログ記録者の場合は思索にふける。哲学についてのときもあるし、今後の学習目標について考えるときもある。そして脳が疲れていると、そのまま自然と寝てしまうのであった。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。