KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

死までの思考

 前回の日記で、飛び降り自殺に巻き込まれた方の話を書いたが、なにが悲しいかというと、巻き込まれる直前まで日常生活を送っていたというのに、前触れもなくその日常が断ち切られてしまったということだ。

 

 その点でいえば、まだ飛び降りた高校生は死ぬという覚悟をもって飛び降りたという経緯があるだけいい。そうなのである。だからもし自分は自殺するという人がいたら、絶対に他の人を道連れにしないやり方でやっていただきたい。

 

 どうも厭世観で自殺する人というのは、他人の迷惑を顧みない傾向にあると思われる。死んだ人を悪く言うなといわれるかもしれないが、死後の人間の存在の在り方は、いろいろな可能性が考えられるので、あえていわせてもらった。

 

 私はこれから死ぬという思考が持てる死に方と、そうではない死に方には大きな差があるのである。自分の人生をふり返れない死は悲惨である。ただもし肉体と魂は別物で、肉体が死にかけても、思考できる魂が残るとしたら、まだ救いがあるのだが。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り僕は君のそばにいる。