KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

《被差別おっさんのこれが生きる道》としてのプロローグ

 50歳は目前だというのに、鬱状態が著しくて困る。ブログも仕事中だと、よし帰ったらやろうと思うのだけれど、ごはんを食べて風呂に入ると面倒くさくなってしまうのだ。

 

 でも絶対こういうアウトプットは必要だ。思考が復活するのだから。なぜ人間は思考しなければならないのか。思考停止したら、脳みそは退化するからだ。もし人間は心と体が別だとしたら、心=精神も退化する。脳みそはイコール体である。

 

 面倒くさいと思ってしまうことの対処法はなんだろう。とりあえず気分転換して一からリスタートしてみることだと、おっさんは思うのであった。ブログもそう。ただ何を足して何を減らすかというのを、把握しなくてはならないだろう。

 

 50歳になるので、この歳でしか書けないようなことを足していこう。最近おっさんとして、おっさんはどう在るべきで日常生活をどう生きるのか。追求しようかと思ったので、新しいテーマにしよう。

 

 それと昭和ネタはそのままにしよう。これは削れない。そしてこれも削れない。

 

《今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。》