KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

断捨離するものは実は自分の脳の中にある《僕の取扱説明書》

 ”断捨離”と聞くと、まず部屋のものをなくすことである。つまりは目に見える、その手に掴めるものをなくすということでもある。しかし小生の部屋は、モノがたくさんある。本であったりコレクションであったり。

 

 モノに囲まれた居住空間がとても落ち着くので、これらを断捨離するという気にはなれない。なにもない部屋の空虚さというのは、介護施設介護福祉士をやっていて、入居されているお年寄りの部屋をみていることもあって痛感するのだ。

 

 ただ寝る、つまりはただ呼吸するだけの部屋は辛い。お年寄りの気持ちになってみてそう感じてしまう。呼吸が止まるのをただ待つみたいで嫌になってしまう。そして家に帰ってきて自分の部屋にたどり着いたとき、自分を取り戻したみたいで安心するのだ。

 

 さて本題だが、《自分の脳の中の断捨離》とは何だろう。それはラッキョウのようになっているプライドを一枚一枚はがしていくことである。その一枚の代表格が、もてたいという願望である。

 

 もてたい、人に愛されたいと思うことは、自分にその価値があるというひとつのプライドの表れである。好意を持った人に冷たくされて、腹立たしく感じるのは、自分がかわいいと思っているからである。

 

 これが歳をとればとるほど、こじれてしまうから厄介なのだ。老いればモテなくなるのは必然なのに、そんな空気みたいなものに無駄な抵抗をしようとする。妻帯者であったとしてもだ。

 

 そういうつかみどころのないものに対して、無駄な抵抗をやめる。これをやると楽になる。恋愛するなとはいわない。必要とされることだって、あるかもしれないから。いい歳こいて、ガツガツしなさんなという話であった。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。