KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

深遠なる闇の恐ろしさ


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 先日、甥っ子が熱を出して、親である弟やその奥さんも仕事があるということで、見守りをしてきました。

 

 甥っ子はよくできた子で、親が仕事に行って思郎と2人きりになっても、大人しくしていました。私も特に構うことなく、彼も遊ぼうとせがむことなく、2人で思い思いに過ごしていました。

 

 いつしか彼は寝てしまい、2時間ほど経ちました。そして起きたわけなのですが、この時この日初めて泣き出したのです。しばらくさめざめ泣いていて、その後に弟が帰ってきて落ち着いてきたのですが。

 

 帰りのバイク運転中に考えました。甥っ子は目覚めるまでの自分の意識に見えた暗闇が怖かったのではと。大人の場合は夢見の時ですね。

 

 甥っ子はまだ3歳ですから、頭の中にある情報が少ない。だから夢を見にくいし、夢という概念もない。だから目覚めのギリギリまで暗闇もしくは、もやもやした風景しか認識できなかった可能性がある。そりゃ怖いだろうなと思われたわけです。

 

 暗闇の怖さというのは、ニンゲンの生得観念なのではないかなと思われます。つまり《生まれつき備わった意識》です。

 

 思郎もよく考える事があるのです。それはニンゲン死んだらどうなるかということについてです。もし神が存在せず、自分の存在を意識する霊体も存在しなかったら、深遠なる闇に陥り、何もかもが無になっていく。生きて己の存在を意識できる今だからこそ感じられる恐怖です。

 

 とは言ってもとりあえずは、今をただ生きていくしかできないのですけどね。

 

今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。