KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

男として歳を重ねると嫌われるのが一種の役割になってくる

 気まぐれにまた述べてみる。述べたい気持ちはあったのだが、打たれ弱いハートを抱えてズルズルと生活していた。なぜ嫌われるのかとか、わからないというのは、歳を重ねた弊害なのであろうか。

 

 もしかしたら自分が係わることのできない社会で、変な噂を立てられたからかもしれないし、実は理由すらないかもしれない。というのは自分勝手な物言いかもしれないけれど。

 

 アラフィフのオヤジとして気をつけないといけないのは、嫌われることに対して、自分の沽券を気にして怒りをあらわにしないことだ。それが高じて暴力に発展する。そんなことするぐらいなら、《哲学的思索モード》に突入した方がいい。

 

 そもそも哲学そのものがなんなのだという話だが。これはぜひ通信制の大学に入って自分の肌で感じてみてといいたいところなのだが。有名な哲学者の名言をかいつまんで意識を高く持つのが哲学ではないということは述べておく。

 

 じゃあなにかと問われたなら、《存在するとはなにか》を探求するとでもいおうか。

(つづく)

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り僕は君のそばにいる。