KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

《孤独》でいられるって実はぜいたくなのです

 おひさしぶりです。ちなみに当ブログ管理人は文章の中に《》という括弧を使う。これは一般的に強調を意味する。今回の《孤独》も疑問に思われることがあるので、《》をつけてみた。

 

 よく自分は《孤独》ですという人がいるが、ニンゲンというのはなかなか孤独でいられるのは難しいことなのだ。そう、社会に存在する限りは。関係性というものが発生するので、厳密には孤独ではないのである。

 

 本当に孤独になりたかったら、無人島を自分ひとりの有人島にして自給自足しながら、人知れず死期がきたら死んで土に還ればよろしい。だがそんなことは難しいし、やらなくてもいい。別に当ブログ管理人は、孤独っていうなら本当に孤独になれなんて言うつもりは、さらさらないからだ。

 

 ようは孤独《感》なのだ。孤独ではないのだけれど、社会のなかにいて、孤独みたく感じるのである。なぜ孤独でいられるのがぜいたくなのか。ヒントは、《ニンゲンは考えられる》からだとしておこう。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。