KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

きのうのジョー

 われわれは、《あしたのジョー》を語ることがあっても、《きのうのジョー》については、あまり語らない。

 


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 いまや第一話だけなら、いろんな昭和のアニメがYouTubeで無料で観られる時代である。あしたのジョーもそのうちの一つで、ひょんなことで見つけて、つい懐かしく観てしまった。

 

 懐かしいと言っても、リアルタイムでマンガを読んだりアニメを観たりしたわけではない。あしたのジョーは昭和45年だから僕はまだこの世にいなかった。はじめてこの作品に触れたのは小学生のころ、つまり昭和50年代ということになる。

 

 ジョーはどのような生い立ちを歩んできたのか。真っ白になる結末はみんな知っていても、第一話の前つまり《きのうのジョー》というのはあまり詳しくは知られていない。ヒントは第一話とオープニングテーマにある。

 

 ジョーには親がいない。丹下段平に逢うまでは施設に預けられていたらしい。親の顔を知っていて、怨みを持っているわけではなさそうだ。オープニングテーマの2番の歌詞には親が欲しいとあるし。目的のない自由のなかに無一文で施設から飛び込んだようだ。

 

 劇中に泪橋という橋が出てくる。実際の泪橋はこんな立派なものではないのだが。江戸時代この橋は、いわゆる娑婆の世界と刑場を結ぶものだった。刑場に着いたらもう二度と娑婆の世界に戻れない。そういった現実のなかで、橋から娑婆を眺めて涙する。だから泪(なみだ)橋。

 

 いまやあしたのジョーの結末を知る者にとっては、なにかの暗示みたいにも思えてくるが、だからこそあえて、ジョーは最後に死んだのかどうか読者に委ねるような結末にしたのかもしれない。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。