KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

他人に干渉されずに物思いに耽りたい

 

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(前回のつづき)

 当ブログ記録者(いろいろ考えた結果、自分の事をブログ内において、こう名乗ることにした)は、これまでいろいろな人に嫌われつづけてきた。かなりの年数、義務教育課程においてクラスメートだけでなく、時には先生にすら嫌われていた。

 

 ニンゲンどっかしら《嫌われる部分》は持ち合わせているであろうが、このイジメの年数からして、当ブログ記録者は異常であるといえる。ニンゲンの異常には、先天的なものと後天的なものがあると思われる。

 

 当ブログ記録者の場合は、先天的なものが当初から大きかったのだ。それをこじらせて人生を送ってしまって、さらに後天的な異常も積み重なっていった。そしていまである。犯罪歴はない。

 

 なんでヒトを恨まずに、犯罪を犯さずに生きていけたのかというと、恋愛関係にあったパートナーに恵まれていたというのがある。いや恋人や連れ合いがいなくたって犯さないでしょって思われるかもしれないが、当ブログ記録者には自信がない。

 

 けれどもでは友人(と自分が思い込んでいる可能性ありの存在および逆も然りも含め)が多くいれば、犯罪を犯さぬ平穏な性格でいられるかというと、それは違うのではないかと考える。なぜかというと、自分のキャパシティを越えた人付き合いが、考える能力を奪うと考えるからだ。

 

 人を介して入ってくる情報に対して、独自に物思うことができなければ、その処理ができなければ、もはやそんな情報は無意味なのである。そう考えるニンゲンを【情弱】と呼ぶムキもあるだろうが。

 

 人づきあいが少ない、深く人と関われない、だから《孤独》なのだと思う人もいるかもしれないが、そういうつきあいがないとむしろ、のんびり本でも読んで物思いに耽られる。己のなかの《無知の知》が刺激されていく。

 

 当ブログ記録者なんかは、もはや仕事も社会的なものではなくて、個人で細々とした、つまり飯が食えて、雨風しのげる家と、老醜にみちた肉体を隠せる服が着られる程度の収入が得られる仕事さえできればいい。そうすれば互いに傷つけあうこともない。そう思われるのだ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。