昭和テレビ
三遊亭圓歌師匠が今月の23日にお亡くなりになった。師匠の「中沢家の人々」という落語は、自叙伝のような内容で、完全版は1時間を超える内容になる。この噺は数ある落語のなかでもいちばん好きな噺だ。
子ども時代、関東圏に住んでいなかったヒトには申し訳ない。もしかしたら大阪なんかはやっていたかもしれない。夕方6時にテレビ東京にチャンネルをあわせると、よくホビー関係の番組をやっていた。
とくにむかしのアニメのエンディングというのは、エンディングというだけあって、哀愁にみちた歌が多い。だが中にはオープニングまでもが哀愁に満ちているアニメというのも存在する。それが「星の子チョビン」である。
子どものころ、東京12チャンネル(現・テレビ東京)では夕方にかけて、むかしのアニメの再放送枠というのがあった。その枠でやっていたと記憶している。いや朝だったかもしれなくて、記憶が定かではないのだけれども。
童謡「ドレミの歌」や「南国土佐を後にして」などのヒット曲で知られる歌手のペギー葉山(ぺぎー・はやま、本名=森シゲ子=もり・しげこ)さんが12日午前11時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。83歳だった。連絡先はキングレコード。お別れの会を…
元朝日放送(大阪市福島区)のアナウンサー・安部憲幸(あべ・のりゆき)さんが6日、胃がんのため死去した。71歳。島根県出身。10日、同局のラジオ「おはようパーソナリティ道上洋三です」(月~金曜前6・30)で発表された。 元朝日放送の安部憲幸さ…
国鉄がJRに変わってちょうど30年になる。1987年4月1日にJRになったので、30年前の今日が国鉄最後の日ということになるわけだ。そう、そのむかしは”国有鉄道”があったのである。
もう鬼籍に入られて20年近く経ったのか。大泉滉は俳優・コメディアンであり、晩年は奥様といっしょに「わてら陽気なオバタリアン」でコントを演じていた。実生活でも恐妻家だったそうだ。
ふと観たくなって、YouTubeで将棋関連の動画を検索していたら、羽生善治三冠のNHK杯の軌跡をなぞる映像をみつけた。羽生三冠がNHK杯に初出場したのが昭和61年で、カレがまだ高校1年生のときだった。
いつごろからだろうか。バラエティー番組なんかをみていると女性のアナウンサーばかりが目立つ。いや報道番組でも、有名なフリーのアナウンサーはともかく、局アナにおいていえば女子アナばかり活躍している。
「おくさまは18歳」は、昭和45年にTBSで火曜19時に放送されたドラマである。非常に人気があったドラマで、何度も再放送された。本放送から10年ぐらいは、けっこうな頻度で再放送していたと記憶している。
「ごちそうさま」は日本テレビで1971年から1998年まで、平日のお昼に放送された15分のお料理番組である。司会は高島忠夫・寿美花代夫妻。味の素の一社提供だった。
さいきんやっと、近藤正臣が枯れてきたおかげで、カレのことをしみじみ味わえるようになった。このヒトはエネルギッシュであり、コトバをかえれば暑苦しかった。
それこそ幼児期に植えつけられたそんなコトバ。それが”チムチムチェリー”である。そのほかにもまだある。”ビビデバビデブー”とか”チキチキバンバン”など。でどころはいまの時代なら簡単に探せる。
ガキの時分のころ、平日の朝といえば、たいていはテレビのチャンネルを8にあわせた。関東でいうところのフジテレビである。7時半にピンポンパンがはじまり、そののち8時にひらけポンキッキになる。
村野武憲といえば、青春ドラマ「飛び出せ!青春」。そして「飛び出せ!青春」といえば、主題歌の「太陽がくれた季節」である。ドラマ放映時はちょうど僕が産まれたころで、まさに青春というコトバの全盛期であった。 いまやこの歌をカラオケとかで人前で披露…
昭和64年1月7日「NHK臨時ニュース」より ==== つい先日、藤森元宮内庁長官がお亡くなりになった。昭和の終わりを告げた人物だったから、なんか感慨深いものがあるよね。昭和元年生まれで昭一さん。君は知っているかい?昭和元年って一週間しかないんだぜ…