昭和テレビ
今月はじめごろに、東芝が来年の3月、フジテレビのサザエさんのCMスポンサーを降板する方向へというニュースが報じられた。もう家電事業も売却しているし、いつかはその日がくるだろうなと予想していたが。48年もやっていたのか。
前回の記事で「鉄腕ダッシュ」の時間帯に「素晴らしい世界旅行」がやっていたと記したが、それは後半の30分のハナシである。では前半30分はなにをやっていたのかというと、関東圏においては「びっくり日本新記録(1975~1985)」であった。
日曜日の夕方から深夜に「翌日からまた通学・仕事をしなければならない」という現実に直面して憂鬱になり、体調不良や倦怠感を訴える症状のことを俗称で「サザエさん症候群」という。
子どもの時分、キャンディキャンディというアニメがあって、毎週観ていた。それだけではなく、単行本も全9巻持っていた。小学生のころは、少年漫画のみならず、こうした少女漫画も読んでいたのだ。
昭和55年。当時、小学校2年生だったので、政治などというものはまったく知らなかった。けれども新聞やテレビをみて一大事だというのはわかった。日本の偉い人が亡くなったのだから。
選挙期間まっただ中の今日この頃であるが、僕は棄権する。政治というか、選挙に投票するという行為じたい、独自の哲学を持っているニンゲンにとって、無意味なものであるからだ。
いまや毎年あたらしいライダーが登場するようになったが、僕が小さいころは仮面ライダーシリーズは休止していた。その他にも当時は実写ヒーローものはやっていたのだが。よってリアルタイムで観たのは、”スカイライダー”と”スーパー1”のみである。
本題に入る前に、前回の記事でキュウレンジャーに巨大ロボがないと書いてしまったが、ちゃんとあった。訂正してお詫び申し上げる。よくみてなかっただけだ。みてなくててっきりおもちゃ業界が不景気でCM出せなくて、巨大ロボも必要なくなったと。
『ザ・トップテン』は、1981年4月6日から1986年3月31日まで日本テレビ系列局で毎週月曜日の夜8時に生放送されていた音楽番組。邦楽ランキングの上位10曲をカウントダウン形式で発表し、ランキングされた曲を歌手が披露するという内容になっている。
昭和64年1月7日。朝8時になろうとしていたころ。まだ冬休みということもあって、この日の朝は目覚まし時計もかけずに熟睡していた。母親が声をかけてくる。
日曜日の朝、早くに起きてテレビをつけTBSにチャンネルをあわせると、いつもの朝とは違った風景がみえる。間違ってかなり早く起きると「時事放談」、少し早いと「真珠の小箱」、早いといえない時間に起きると「兼高かおるの世界の旅」という風に。
先日とある歌番組を観ていたら徳永英明が出て話していたのだが、もし25歳になるまでにデビューできなかったら、夢をあきらめて勤め人になるという約束を親としていたそうだ。そしてカレは24歳10か月というギリギリセーフのタイミングで幸運をつかんだ。
昭和49年に放送されたこの作品も、やはり再放送で観たクチだ。昭和のころは本当に、よくアニメの再放送を民放でやっていたものだった。はじめ人間ギャートルズはまずオープニング曲から鮮烈であった。
いまや錦織圭選手の活躍もあって、日本でも注目されているテニス。彼の影響もあって、テニスをやろうという子も増えたのではないだろうか。ただ昭和の時代も多大なる影響力で、テニスをやろうとする子を増やした存在がある。
昭和39年、東京12チャンネルの開局によって、VHFの1から12までのチャンネルはすべて埋まってしまった。だが。まだテレビで使える周波数帯があった。それがUHFだ。
現実に遭遇して、はじめて気づいた。野際さんでも死ぬのかと。いやなにを当たり前のことをいわれるかもしれないが。それでももうひとつ追加するなら野際さんでも81歳になるのかと。
AKB48の第9回選抜総選挙というイベントで、須藤凜々花というヒトがスピーチで結婚宣言をしたということで話題になっている。それにたいして、会場の外にかけつけたという”都内在住の40代男性”のコトバが興味深い。
子どもの時分における土曜日の19:30。いつも必ずチャンネルを「10」にあわせていた。はじまりはいつも小芝居で、見事にオチが決まったあとに、オープニングテーマは流れる。
YouTubeをなにげなくみていたら、ひょうきん族の動画をみつけた。ひょうきんベストテンが懐かしい。そしてこのコーナーで中森明菜の歌といえば、可愛かずみさんである。いま観てみると実は彼女、歌が上手だったのだなあ。
フジテレビの「ものまね王座決定戦」において、彼女の存在は賛否両論あるであろう。かくいう当ブログ管理人も、あまりものまねを逸脱して笑いをとる出演者は笑えないタイプである。ものまねはものまね。ネタはネタで別の企画でみたいのだ。
ワイドショーと松田聖子でさらに思い出すのが、1985年の郷ひろみとの破局における会見である。郷に「生まれ変わったら一緒になろうね」と言われたというハナシは有名である。それに対して郷は言った。
80年代という時代は、テレビワイドショーの爛熟期であった。それはすなわち末期には腐りかけていたということにもなるのだが。ハナっから腐っていたのかもしれない。そのようなワイドショーを松田聖子というヒトはうまく渡り歩いていた気がする。
瀬戸内シージャック事件とは 生まれる前の事件なのだが、犯人が撃たれたときの映像は、子どものころに何度もテレビで観た。日本テレビ系列の放送局が撮った映像なので、同局で不定期に放送された「カメラが捉えた決定的瞬間」だったはずだ。
雨止んでひと傘を忘る。兎角人間は時の流れに過ぎし日のことを忘れがちなものです。推理と思い出のご対面。それは秘密です!! という桂小金治の名調子でその番組ははじまった。
1980年。それは山口百恵がさよならのかわりとしてステージにマイクを置き、われわれの想い出の彼方へと消えていった年であった。そして彼女が去った後も、その幻影をもとめてさまよい、変わる存在を探していた。
そのむかし、テレビのゴールデンタイムで、女のヒトの裸がふつうに流れていた時代があった。というか昭和という時代そのものがそういう時代であった。いまでは信じられないが。
昭和50年代少年少女のみなさんは、昭和60年ごろ、土曜日の夜8時というと、テレビ番組でなにをごらんになっていただろうか。”全員集合”であろうか。それとも”ひょうきん族”であろうか。
前回の記事で、”欽ちゃんの時代が終わるというのは、ある意味番組内で1から人気者を作る時代が終わったということでもある”と書いたが、説明不足であるので、もう少し補足したい。
子どものころに観ていたテレビ番組と、いまのテレビ番組とで変わったなとおもうのが、いまはずいぶん視聴者参加型の番組が減ったなあということだ。クイズ番組もいまや芸能人ばかりだ。
いまや子どものころにあった遊園地は、けっこうな数なくなってしまった。関東地方でいえば、横浜ドリームランド、小山ゆうえんち、多摩テックなどなど。そのむかしはテレビでCMをやっていたものだが。