KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

昭和テレビ

動画でふり返る昭和~平成初期(2)

いまでも”衝撃映像”を特集した番組はやっているけれども、平成初期ぐらいまでは、いまとは比べ物にならないほどの衝撃映像が、”ゴールデンタイムのお茶の間”にむけて流されていた。

まんが日本昔ばなし

「まんが日本昔ばなし」は、昭和50年に放送がはじまった、TBS系列(大阪の毎日放送が制作)のアニメ番組である。僕が子どものころは、関東では土曜日の午後7時からやっていた。

芸術の秋、スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋、ホラン千秋

横浜は雲一つない秋晴れ。空気は温度が下がると、水分を蓄える量が少なくなる。空気が乾くと澄んで透明度が高くなる。ヒトビトの目に映る富士山こそは、日本における最高峰の芸術だ。

アニメ「一休さん」の記憶

最近、携帯電話会社のテレビコマーシャルで、アニメの一休さんを見かけるのだが、平成生まれのヒトで知っているヒトはどれぐらいいるのであろう。そもそも放送がはじまったのが昭和50年である。

昭和52年日本テレビの試験電波

テレビをつけっぱなしにして寝てしまうことがある。そのような状況でふと夜中に目が覚めると、いつものテレビの映像とは違うモノが流れてビクッとする。いまはほぼ24時間なにかしらの番組をやっているが、昔は違ったのだ。

40年前の日本テレビとニュース&天気予報

また24時間テレビの話で恐縮だが、この番組が登場したのはちょうど40年前の昭和53年である。日本テレビの開局が昭和28年であったので、開局25年の記念ということではじまった。

それはまるでタイムカプセルのように(後編)

それはまるでタイムカプセルのように(前編)からの続き。 しかし本放送から37年経過してから観ると、まるでタイムカプセルを掘り起こして中身を見ているような気になる。そして37年前には37年後のことなど想像もつかないのだろうなと考えさせられる。

それはまるでタイムカプセルのように(前編)

毎週録画して観ては保存している番組がある。日曜日のお昼にやっている「NHKアーカイブス あの日 あのとき あの番組」だ。しばらく高校野球中継でお休みしていて、再開後の第一弾が、「NHK特集・勝負~名人への遠い道~」だった。

江ノ電を救った男

いまテレビ神奈川では、月曜から水曜の22時に、日本テレビで昭和51年に放送されたドラマ「俺たちの朝」の再放送をやっている。このごろこの時間帯は、日本テレビの懐かしいドラマの再放送が続いている。

NHK特集「人間の声 日米独ソ・兵士たちの遺稿」

NHKスペシャルは同局のドキュメンタリー番組で、前身はNHK特集という番組名だった。ちょうど昭和から平成になるころに番組が変わった。

とんねるずのタイマンテレフォン

【あらすじ】 中学生だったころの、夕方5時のフジテレビの思い出。中学校生活は面白いものではなかったけれども、まだそのころにはテレビという切り札があった。

ヒョー、ショー、ジョー!

昭和のころの大相撲の千秋楽。優勝力士が決まり表彰式がはじまる。はたしてどれほどあるのだろう。延々と賞品やトロフィーの授与がつづく。そのなかでひときわ目立つ存在。それがいつも「ヒョー、ショー、ジョー!」っていって笑わせてくれる外人さんだった。

変身ヒーロー”中の人”の苦労

このあいだテレビをチラッとみたら時代劇「必殺仕業人」がやっていた。そしてその回の悪役として、佐々木剛さんが出ていた。あの仮面ライダー2号の役を演じたヒトとして有名な俳優さんだ。

東洋の巨人・ジャイアント馬場

突然ではあるが、日本テレビのいく道は”王道”である。日本初の民放テレビ局であるし、”日本”テレビと名乗っている。そういう意味では王道をいかねばならないという宿命を持っている。

当時ぼくらの血はエロスでできていたの

先日みうらじゅん先生の個展に行ったら、先生がコレクションしていた、シングルレコードのジャケットが展示されていた。そのなかでひときわ美しく輝いていたのが、”ノーパン喫茶の女王”ことEVEさんのジャケットであった。懐かしさがこみ上げてくる。

”キャプテン”は最高の野球マンガだったとつくづく想う

www.jorf.co.jp 山上路夫先生といえば、僕が応援している千葉ロッテマリーンズのオフィシャルソングを作詞された方なのだが、特集というから「あれ?亡くなられてどれぐらいだっけ?」と思ったらまだご存命であった。すいません。

さようならがあたたかい

今年も訃報が多い。この歳にもなってくると、子どものころによく観ていたテレビ番組の登場人物の訃報も多く目にするようになる。先日お亡くなりになった左とん平さんもそのひとりだ。

企業というものの栄枯盛衰

昭和50年というと43年前か。フィルム撮影の料理番組というのはめずらしい。いまの時代4Kなどいって、とにかくきれいにはっきり観えるのがいいというかんじになっているが、はたしてそれほど必要なことなのだろうか。

むかしのテレビ番組にあっていまはないもの②

クイズ番組はいまでも多くやっている。ただむかしはたくさんあったのに、いまやほとんどなくなってしまったものが、クイズ番組というジャンルにある。こうなったせいで、テレビに夢みたいなものがなくなったといっても過言ではあるまい。

むかしのテレビ番組にあっていまはないもの①

子どものころは当たり前のように観ていたけど、いまおもえばすごかったのだなあというもの。それが8時だよ全員集合である。なにがすごいのか。まずはこの動画を観てほしい。

”あれ”から13年

TBSに現存する最古の映像資料。それが昭和33年10月31日に放送された「サンヨーテレビ劇場」のドラマ「私は貝になりたい」である。そしてドラマ終了後に、生放送でコマーシャルが流れた。

品質管理用の信号

前回で取り上げた、岩谷自動車のコマーシャルのハナシで思い出した。そういえば似たようなのがあったな昔にと。黒地に白い文字で、無機質なかんじの映像。でもあれはヒトの声すら無かった。

オクレさんから村上ショージさんへの流れが最高

YouTubeを観ていたら、さいきんどこぞかのヒトが、むかしのあるお笑い番組の1コーナーの詰め合わせをアップしていたんだ。あまりの懐かしさに胸がいっぱいになってしまったよ。

この番組を観て大人になったといっても過言ではない

それぐらい影響を受けまくった番組があるんだ。それがテレビ朝日で夜10時に月曜から金曜まで放送されていた「ニュースステーション」でね。中高生のころは、ほぼ毎日観ていたとおもう。

”優しいお母さん”だけじゃない

やはり役者にとって、一つのイメージだけでかたられるのは不本意だよ。このヒトのばあいは、いつも”欽どこのお母さん”で終わらされてしまうのさ。もっといろんな顔を持っていたはずなのにね。

ゆく年くる年

今年の年末年始も仕事で、大みそかも正月も22時までだから、年越しの気分はどうやら味わうことは叶わないようだよ。介護施設にいて年末年始だというのに帰るところのないヒト、そういうヒトを世話しないといけないヒト。どっちも社会の落ちこぼれさ。

のっぺらぼうのミスター・NO

漫画タイガーマスクといえば、ジャイアント馬場やアントニオ猪木など実在のレスラーに混じって、架空の”虎の穴の覆面レスラー”が登場する。その中にはとんでもない荒唐無稽なのもいるわけさ。

みなし児のバラード

子どものころ、アニメのタイガーマスクが大好きだったんだ。あのころは昭和40年代のアニメの再放送をよくやっていてね。その影響でマンガも読みだしてさ。あしたのジョーも好きだし、もう梶原一騎チルドレンなのだよ。

テレビのない家族【TVスクランブル】

『久米宏のTVスクランブル』は、1982年から1985年まで、20時から日本テレビ系列で放送されていた、生放送の情報バラエティで、当時好きで毎週観ていた番組である。

忍風カムイ外伝

48年前にはじまったテレビアニメ「サザエさん」であるが、むろんその前番組というものが存在する。それが忍風カムイ外伝である。原作は白戸三平。いわば名作であるのだが・・・