KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

屠殺場にいきたいんですけど…どっちですか?

「人間に与えられた能力の中で、一番すばらしいのは想像力だけである」

寺山修司の言葉である。今年の12月10日で寺山修司生誕80年をむかえる。NHKアーカイブスでは寺山の活動をまとめ、そしてNHKに現存している一番古い寺山作品のドラマ「一匹」を放送した。観ていないヒトのためにあらすじを説明するとこんなかんじ。


舞台は田舎の農家。朝起きた少年は、牛の「太郎」がいなくなったことに気付く。
 どうやら太郎は農協に連れていかれたらしいとわかる。 少年は街に降りた。
彼はそこで、初めて心を交わす兵士風の男と出会う。彼とともに農協に向かう。
太郎は東京の品川の屠殺場に連れられたという。
働き牛が屠殺場に?二人は不思議に感じながらも、東京に向かうことを決意する。
東京に行くためには切符が必要だと、兵士風の男の言うままに、少年は盗みをはたらく。
自転車屋の集金箱からお金を持ち出したのだ。
二人は切符を買い、東京へと向かう列車に乗り込む。
兵士風の男は、東京につくと「坊主、俺もずいぶん昔から東京に来たかったんだよ」と言い残し、姿を消した。
少年は都会のど真ん中に放り出される。
駅のアナウンス、デパートの清掃機、ダンスフロア…。まるで別世界の風景に気圧される少年。
「あのう…屠殺場にいきたいんですけど…どっちですか…」
誰もがまともに相手をしてくれない。
笑い飛ばされる度に少年の心は磨り減っていく。
夜、虚ろな目でさ迷う少年は、バイクに乗り込む青年を見かけた。
少年はバイクを必死に追いかけた。まるで希望にすがるように。
追い付かれたバイクの青年は威勢良く言った。「坊主、乗るか!」。
少年は救われたような笑顔を見せる。
屠殺場に到着した二人は不気味な敷地内に潜り込んだ。
少年は暗がりの中、一歩一歩進んでいく。
突如肉を拾う老婆が現れる。
彼女はコンクリートの地面に散らばった細かい肉片を拾い歩き、どこかへと消えていく。
しばらく後、隅でタバコを吸っていた男も肉を拾い始める。
突如男が言う。「きっと太郎はもう肉になってしまったんだよ!」
真偽のほどはわからない。
ただ少年は虚ろなまま奥の部屋へと進んでいき、吊るされた何体もの牛の死体を前に泣き崩れる。
朝になった。 あれほど不気味だった屠殺場が明るく照らされる。
従業員が、牛の肉の間で眠る少年を見つける。
少年は目を覚まし、彼らに尋ねた。
「太郎は…?」
すると従業員は吊るされた牛に手を当てては、 「太郎だ」「太郎だ」「これも太郎だ」「太郎だよ」
「坊や、みんな太郎なんだよ」 と笑顔で答える。
つられて少年も笑う。 少年は笑顔だった。
屠殺場を出た少年は、兵士風の男に再会する。
男は「昨日も太郎のことが心配でね」と言う。
少年は強い意思をもって答える。
「太郎はもういないよ」
それを聞いた男は、表情を変えずにまた盗みをもちかける。
少年は答える。 「俺が?俺はもう嫌だよ!」。
兵士風の男を背に、少年は歩を進める。
少年は駆け出す。 その顔は笑顔に溢れていた。
画面が暗転し、白い文字が浮かび上がる。

「少年は太郎がみんなのものになったことを知った」


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NHKもよくこんなドラマを許したなというぐらい前衛的なドラマである。あらすじには書いていないが、なんの意味があるのかわからないシーンもある。少年の友だちらしき子どもが鉄塔に登って「飛べ!」と言いながら鶏を放つシーンなんかそうだ。ちなみに鶏は地面に激突して死んでしまう。


最初にこのシーンを観た時は、もしかしたら少年の行先でも暗示しているのだろうかとか考えた。ヒトによっては色んな想像ができそうだ。 これこそまさに寺山のねらいなのかもしれない。そういう自由をカレは保障してくれているのだ。


このドラマは白黒で、しかも昭和38年の作品であるから撮影技術は今と違って限界もある。だからこそ余計に観ているこちらの想像力もはたらく。そもそもこのドラマはかなりの部分が少年の顔のどアップなのだ。観ているニンゲンのシンキングタイムを設定されているようである。


余談だが屠殺場の従業員役で若き日の米倉斉加年さんが出ていた。エンディングのクレジットには名前が出ていなかったが、顔を見ただけで一発でわかった。それから時を経てカレは焼肉のタレのCMに出ることになる。このドラマは未来も予見していたのだろうか。しているわけないか。