洗練されし狂人 ~昭和の政見放送~

 選挙期間まっただ中の今日この頃であるが、僕は棄権する。政治というか、選挙に投票するという行為じたい、独自の哲学を持っているニンゲンにとって、無意味なものであるからだ。

 

 

 投票などというものは”風”が決めるものだし、その風にうまくのれる、無党派層といわれるヒトたちで勝手にやっていればいい。棄権する側としては、決まったことに文句はいわないから。

 

 よく低投票率についていわれている。それはなぜだろう。政見放送がつまらないからじゃないかと暴言を吐いてみる。たとえば共産党小選挙区政見放送などはいい例だ。どの都県のをみてもみな同じ。

 

 志位委員長が1人で勝手に理想を語って、ひとりひとりの候補者の声は聞こえてこない。比例区で党の名前を書いてくれればいいというある意味潔い戦略なのであろうが、観ているこちらとしてはつまらないことこのうえない。 

 

 またつい最近、都知事選挙があったのだが、候補者は個性的ではあるけれども、野暮というかベタというか、そういった狂人まがいのニンゲンばかりであった。昭和のころにはもっと”洗練された狂人”がいたものだ。東郷健さんなどはいい例だ。

 



 こういう佇まいからして狂人というヒトは選挙にはもう出てこないのであろうか。そもそも日本は供託金が高すぎていけない。民主主義といっておきながら、金かコネのあるニンゲンが幅を利かす世の中なのである。

 

ピラミッドの頂点にいるヒトビトを

私はジャックナイフでその胸を切り裂き


ピラミッドの底辺にいるヒトビトに

私はその血の滴る心臓を捧げたい

せめてみずからに恥じなく眠りたい

 

 こういうセリフをサラッと言ってのける洗練された狂人は、もう現れないのであろうか。こういうヒトが出てきてくれれば、”風”に抵抗するために一票投じてみようかという気になるのだが。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。