KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ぼくらのあこがれライオンズ【永射保】

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 今月24日にあるプロ野球選手がお亡くなりになった。左サイドスローの流麗なフォームから放たれるその球は、レロン・リートニー・ソレイタなどの左の強打者をきりきり舞いさせ、ライオンズで12年ものあいだ活躍した。永射保。その人である。

  じつはこの”ライオンズで12年ものあいだ活躍”というのが地味にすごい。西武に買収されるまでのライオンズは、昭和47年から53年まで、西鉄太平洋クラブ・クラウンライターと幾度も球団名を変えている。

 球団名だけでなく、選手もよく入れ替わった。あまりにも入れ替わりすぎて、クラウンライターのころには、主力選手のほとんどが他球団からトレードで来た選手か、のちに他球団にトレードされる選手になっていた。


1976年 太平洋クラブ・ライオンズ選手名鑑 TAIHEIYO CLUB LIONS



1978年 クラウンライター・ライオンズ選手名鑑 CROWN LIGHTER LIONS



1980年 西武ライオンズ選手名鑑 SEIBU LIONS

 1976年から80年。この5年で、これだけ選手が入れ替わった球団は過去に例がないであろう。永射投手もプロ野球選手としてのスタートは広島カープであった。西鉄から西武まで在籍した主力選手なんていったら、東尾修と太田卓司ぐらいのものだ。

 だがそんなライオンズも82年に日本一となり、黄金時代をむかえることとなる。そしてとうとう永射投手も日本シリーズの舞台に立つこととなる。時は1985年。永射投手は、あの最強助っ人、タイガースのランディー・バースと対峙することになる。



 ヒットも打たれはしたが、三振もとった。この2人の対決は、野球の妙味が感じられるすばらしいものだった。じつはこの2人同い年である。野球の神様が織りなした、最高の邂逅であった。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。