逃れようのない宿命。死とはそういうものだ。死というのは、はたしてほんとうの終わりを意味するのか。それともたんなる通過点なのか。確信できる答えは出てこられようがない。それが人生というものなのだろう。
四国の遍路道にある休憩所の交流ノート。母親の筆で、今年1月の欄に「三男(23歳)が行方不明になり半年、もしかして四国かと探してここにたどり着きました」。そして3月の欄「残念な結果になりましたが、探してくださった方々に感謝‥」。観光化した遍路だが、今も生死の間を彷徨う旅人がいる。
— 上原善広 (@yosihiro96) 2017年10月2日
ここまでは私という”1人称”のハナシ。こんどはあなたと私という”2人称”のハナシである。ふたりのあいだには、死に行く者と残される者という境界線ができる。死に行く者にとって、残された者の想いはどうなってしまうのか。
どうせ”無”に帰すのだから、そのような想いも結局は無なのだろうか。それともなんらかのカタチで繋がっているのだろうか。あなたはそんなことを考えたことがあるだろうか。
僕はこの世に生きている限りは、繋がっていると思うことにしている。でなければ人の”死”というのは、あまりにも不条理すぎるからだ。実は生と死などというものは、ニンゲンが勝手に決めた二元論にすぎないかもしれないではないか。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。