KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

陽岱鋼の象牙取引禁止活動動画と”頑なな無関心”

 言葉の暴力というのは、よく聞くけれども、言葉としては隠されている、視覚に突きつけられる暴力というのがある。気にしないヒトもいるかもしれないが、怒りが沸いたり、傷つくヒトがいるかもしれない。

 

 発している方にしてみたら、そういうつもりはないということも、もちろんあるだろう。こういうことは、お互いに議論する場と意見を尊重する謙虚さが大事であるけれども。

 


Yoh Daikan, Japanese professional baseball player speaks up for elephants

 

 これは象牙取引禁止を訴えるための動画で、日本のプロ野球ファンにはおなじみの、読売ジャイアンツ陽岱鋼選手が出演している。この動画のどこに問題があるのか。

 

 この動画に出演しているのは、国籍は不明だがみな東洋人である。あたかも東洋人だけが象牙取引をしているかのように映る。しかもご丁寧に英訳まで載せて、西洋人むけにも発信しているわけだ。

 

 このような動画の作り方だと”対象にされなかった人種の対象にされた人種への蔑み”と”対象にされた人種の怒り”を生むのではないか。対象にされた方の”頑なな無関心”を生む可能性もある。

 

 ”頑なな無関心”というのは、たとえば今回だったら「積極的に象牙取引は賛成はしないけど、問題意識も積極的に持たない」ということになる。そうして生まれた”頑なな無関心”には、「西洋人もやっているからじゃ問題は解決しない」という諭す言葉も無意味だ。

 

 象牙取引反対に限らず、どうもこの手の啓蒙運動をする人は、正しいことをやっているという意識が強くて、啓蒙される方のニンゲンの感情に無頓着な気がしてならない。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。