KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

長谷川豊氏の松井一郎知事公用車喫煙ツイートにみる二つの問題と、倫理について考える

  大学に入って専攻として哲学・倫理・宗教・思想を学んでいるのだが、ひとつのパーティーに属したり、支持をするのはその邪魔になると考えている。

 

 つまりひとつのパーティーというものに属してしまうと、いま学ぼうとしている課題を見る目が、ぼやけてしまう危険性があるのだ。自分自身が見て考えて出来上がった信念が、グループから発生するしがらみによって歪められてしまう。

 

 

 ということでこの長谷川豊氏のTwitter発言を例にする。彼は日本維新の会に属していて、その代表である松井一郎代表が公用車のなかでタバコをすったことを、ここでは擁護している。このツイートにはおもに2つの問題がある。

 

その主張ははたして公的に適用されるものなのか

 ”公用車のなかでタバコを吸うのは問題ない”という発言そのものを、私は是非の問題にはしていない。これについては色々な意見があっていいし、議論されるべきである。

 

 私が問題にしているのは、ではその主張は松井代表だけではなく、主張の異なる政党のニンゲンに対しても適用されるのかということだ。もしこれが共産党の首長であったとしても同じ主張がいえるのか。

 

 もし違うとしたならば、その主張は”私的”である。こういう倫理的な問題を人によって私的に変えるのは、いかがなものかというハナシだし、となると倫理を追究する上でもパーティーという存在は足枷になる。

 

法にふれなければなにをやっても許されるか

 じつはニンゲンがニンゲンらしく生きるためのルールを作り上げるのは、法よりも倫理(モラル)である方がはるかに多い。そういう意味で、法的に問題がないというのは、言い訳にはならない。

 

 むしろニンゲンが同じニンゲンを家畜扱いしようとするときに、”法的な問題のなさ”を主張することが多かったりもする。倫理はニンゲンらしく生きる上で必要不可欠なモノなのである。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。