KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

みっちゃんみちみち

 みなさんはこのような歌をご存じだろうか。

みっちゃん みちみち うんこたれて
紙がないから 手でふいて
もったいないから たべちゃった

 

 

 ”うんそれこそは究極のリサイクルだね”

ということをいいたいのでは、もちろんない。歌詞のちがいに地方差はあるかもしれないが、おそらく全国で唄われていたのではないだろうか。昭和50年代少年ならば、だれもが名前の先頭に”み”がつく子の前で。

 

 じつはこの歌。いまの30歳ぐらいから下の世代のヒトは知らないのだとか。どうやらメディアで規制されてしまい、いつのまにか闇に葬られたらしいのだ。子どもの喧嘩に親が出てくるなという美徳もいまや昔のハナシである。

 

 こういう規制というのは後を絶たないが、それで実際はイジメが減ったのだろうか。そんなことはないだろう。むしろ表立ってやれなければ、裏でコソコソとみえないようにやるだけなのだ。その裏までは、規制をしろというニンゲンは見ようとしない。

 

 べつに子どもにどんどん「みっちゃんみちみち」を唄えといっているのではない。唄っているのをみかけたら、口で注意すればいいだけだというハナシで、それが大人の態度なのだ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。