KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

なぜ大学の講義の最中にスマホを見てはいけないのか

今日の講義の先生は、講義中にスマホを弄っている学生をその都度注意するので(2度目の注意で退場)、それでいちいち講義が止まるのが嫌ですね。まぁ、後方の席の一部の学生は構わず前の人を壁にしてスマホ弄りに勤しんでいるわけですが。

先生も、講義中のスマホ弄りなんてほっておけばいいのになとも思います。不快なのは分かりますが。 流石に音はだしていないわけで、居眠りしている学生と実際大差は無いと思うのです。

昼スク補講と講義中のスマホ - Junの日記

 

  こういうハナシがあると俄然、”Fランクの大学に行くなんて無駄だ!”と言ってハバからないヒトタチが張り切りだす。まあだいたいフタコトめには、”大学なんてやめてフローショトクを得るお勉強しましょ~教えます~”と続くのであるが。

 

 そのようなわけで、なぜ講義の最中にスマホをみてはいけないのかというハナシなのだが、結論からいうと、大学というのは、学問をするところであって、大卒という”ハク”をつける場所ではないからだ。

 

【学問】

①今まで知らなかった知識を教わり覚えること。

②基礎から積み重ねられた、体系的な専門知識。

        (新明解国語辞典 第四版より)

 

 これはFランクだろうが、またそれより下であれば下であるほどそうなのである。バカ大学はバカ大学なりに、バカに合った知識を教えてくれるのだ。知識がないならないで、それを自覚して自分なりに知識を吸収すればいい。知識は荷物にならない。

 

 だいたいスマホなんて見ていたら、時間がもったいない。スマホの情報なんて逃げないのだから、一息ついたときにゆっくりみればいいのである。ましてや親の金で通っているのだとしたら、注意のひとつでもしたくなるのが、老婆心というものなのだ。

 

 あともう一つ、学究肌のニンゲンというのはプライドが高いので、教える際にスマホをみられると、反抗的と捉えてしまうのである。いわば”お前の講義は聞くに値しない、卒業という目的のために利用しているだけ”と言っているようなモノだからだ。

 

 まだ寝ている分には、生理的欲求に抗えなかったという逃げ道があるけれども、スマホの場合はそうはいかないのである。そういう面から言っても、やはりスマホを講義中に見るのはよろしくないのだ。

 

 ここまで読んで納得のいかない学生諸君がいたら、貴重な時間を費やさせてしまって申し訳ないので、一つ役に立つかもしれない知識を教えよう。”フローショトク(漢字で書くと不労所得)”を得る情報をお金くれたら教えるというヒトを信じてはいけない。

 

 埋蔵金伝説を簡単に教えようとするニンゲンは、自分で埋蔵金を探すことはしないものである。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。