KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

《あの人》もいま生きてたら70歳かあ

 YouTubeのおすすめに懐かしい動画があった。

 


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 1972年だから、まだ当ブログ管理人は母のお腹にいるころ。なにが懐かしいってもうボウリング場そのものが懐かしい。今じゃ信じられないが、当時はボウリングが大流行していた。スコアも手書きである。だが今回のテーマはそこじゃない。

 

 ちょっとだけ出てくるのだが、沖雅也さんなのである。この当時20歳でいまは2022年だから、ご存命であったなら70歳だ。50年って昔だよなってつくづく思われる。

 

 僕より年上の方ならご記憶にあるであろう。沖さんは1983年に自らの命を新宿の京王プラザホテルから飛び降りることで絶った。当時10歳の当ブログ管理人は、沖さんの死について強い印象を植えつけられた。

 

 当時31歳の若さであったこともしかり、ワイドショーに連日登場した養父の日景忠男さんしかり。あと遺書に書かれていたという《涅槃で待つ》という言葉。当時は意味もわからなかったが、なにかインパクトのある言葉だった。

 

 仏教においては、基本人間は輪廻転生をくりかえすといわれている。天界に行くこともあれば、地獄に行くこともある。そこで死んでまた違う世界《六道(りくどう)のいずれか》に行く。

 

 けれどもそれ以外に、《涅槃》という世界。世界といったらちょっとおかしいけれども。というのも完全なる無の境地であるからだ。そこに行ったら存在そのものがなくなるのである。《考える我すら消滅》するのだ。

 

 特に上座部仏教(昔でいうところの小乗仏教)では、僧になり修行をしていくところとされている。そうすることで、輪廻転生の苦しみから解放されるのである。

 

 話はそれたが、沖さんも若々しい恰好よさだけを、強く印象に残して旅立ってしまった。70歳の沖さんなんてまったく想像できない。ずっと「太陽にほえろ」のスコッチ刑事のまんま。これは人によって違うが。「俺たちは天使だ!」のキャップとか。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。