【あらすじ】
名選手がまたひとり旅立っていった・・・
根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した。
朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。
あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。
そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた。関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は、泣きながら朝まで素振りを続けた。
衣笠祥雄という名前をきくと、この逸話を思い出してしまう。まさか関根さんより先に逝くなんて。いっておくが関根潤三さんは、まだご存命である。よろしくどうぞ(関根さんの口癖)。
そしてほんとうに衣笠さんは、リーグを代表する打者になった。連続試合出場記録世界記録(当時)を達成し国民栄誉賞を受賞。そしてあのジャイアンツ番場蛮の魔球、ハラキリシュートを打ってホームランにもした。(現実と虚構の世界が入り混じっているが気にしないでいこう)
印象深かったのが、どんなに痛そうなデッドボールを食らっても、いつでも「いいよいいよ」と手を振って、なにごともなかったかのように一塁に走っていく姿だった。当時子ども心に、”実はゴリラだから平気なんだな”と思っていた。今こそ土下座したい。
現役晩年のころになると”自分の連続出場記録のために監督に出させてもらっている”という批判もちらほらあった。けれども記録更新中の17年の間の15年、ホームランを20本以上打ってきたのだから、すごくないだろうか。
打てなかった2年だって、昭和48年の19本と、現役最晩年の17本である。満身創痍のときだってあっただろうし、これだけでも鉄人と呼ぶにふさわしいといえるだろう。
少年だったころに夢と楽しみを与えてくれたプロ野球選手が、またいなくなってしまった。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。