最近よくみかけるコトバに”AI”というのがある。いわゆる人工知能というものだ。はたしてヒトはヒトと同じような知能をもつ装置をつくることができるのか。それは”神の領域”に入り込むのか。
近年では自動車も自動運転になるのではといわれている。さいきん高齢者の自動車事故も多いし、こういうのいいかなと思われがちだ。しかしはたして命の危険もある自動車の運転を、人工知能の自動運転にまかせられるのか。
100%ではないにしろ、ニンゲンの運転よりは、事故の確率は減るというヒトもいるかもしれない。だがニンゲンはいざ死ぬというときに、せめて自分の責任なんだからしょうがないという諦観みたいなものを持って死にたいとはおもわないだろうか。
はたまたニンゲンは、死というものをむかえるときに、その先は天国があるのか、地獄があるのか、ただ”無”になるのかわからないが、それらをむかえる前に思考する猶予というのがあるのだろうか。
それらを考えたときに、やはり己以外の知能に命を委ねるのは、何とはなしにイヤだなとかんじるのであった。死生観というのは、日々仕事なので忙しくしていても、ふとあらわれる。己の中において、切っても切れない存在なのであった。
そんななか図書館で50年ほど前の朝日新聞の縮刷版を読んでいたら、21世紀にはこうなっているといういくつかの未来予想図の文章やイラストが特集されていた。そのなかで目をひいたのが、「電子神」というイラストであった。(つづく)
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。