少数派(マイノリティ)の意見は、他のヒトの同意が得られようと得られなかろうと、まず声を上げなければ届くことすらままならない。その点多数派(マジョリティ)の意見というのは、個人が声を出すまでもないわけだから声を上げる必要がない。
デヴィ夫人は「政治家としては言ってもいいと思いますよ」「生産性ないわよ。だって子供産めないじゃないですか。ほとんどのカップルは養子養女迎えてないから、生産性ないっていう、これも正しいと思う」「子供作らないっていうのは生産性ないじゃないですか」などと、杉田議員を擁護していた。
その代わりにその多数派意見を影響の強いところで代弁する者がいる。この場合でいえば、テレビカメラの前で”生産性がない”と言ってのけたデヴィ夫人のことである。代弁する代わりにデヴィ夫人は”静かな多数派”の静かなる支持を受けるのだ。
ニンゲンには、思ってはいても、言うのは憚られる意見というのが多く存在する。気持ちはわかるけど、それを言ってしまうと面倒になるという意見というものが。LGBTのヒトに対する嫌悪感みたいなものは、まさにその典型である。
無難に終わらせようとするなら、自分とは違う者に対しても、理解のあるフリをした方がいい。でも中には、自分はそういうキャラだから、そこでなにを言っても許されると自覚しているヒトもいる。その1人がデヴィ夫人なのだ。
本能むき出しなのか、計算してやっているのか、それはわからないけれども。制作側もだから大丈夫とわかっているのか、デヴィ夫人は今日もまたテレビに出続けている。彼女を支持するのは、己の静かな悪意に対して無自覚な”静かなる多数派”なのだ。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。