KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

”父親”は何していた問題

 ニュースで時より目にする、若い母親が子どもを虐待したという悲しい事件。こういうニュースを観るたびに思うことがある。

  それは父親はいったい何をしていたのかということだ。もし母親がシングルマザーで、父親が健在であるとしたなら、その責任は父親にもある。母親以上に無責任だといえる。子どもを作るというのは、それほど重大なことなのだ。

 

 別れるにしたって養育費はきちんと払うべきであり、それすらしていないとするなら、そういうニンゲンが子どもを作ることじたい倫理的な罪悪なのだ。生活が苦しいなかで、精神的に追いつめられて虐待してしまった事案だってあるはずだから。

 

 そしてニュースはそういうところも取材し、父親の責任問題についても報道するべきなのだ。これは母親にたいする情状酌量うんぬんのハナシではない。ひろく世間に問いかけなければならないテーマだからというハナシだ。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。