KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ハゲワシと少女

 ブログの記事のはてなブックマークに気になるコメントがあった。

 

水の事故にはくれぐれもお気をつけて【本編】 - 明智半平太(川崎常喜)official BLOG「ハードボイル道」

話しは外れますが先日の西日本豪雨の時に、人を乗せたまま水に沈む車中の男性を助けもせず、カメラを回し続けたカメラマンがいましたね。あれはカメラマンとしての責任感とは違いますよね。ただの業です。最低です。

2018/08/08 12:10

 フリーランスの休日

 

 こういったヒトの生死に関わる局面で、カメラマンはどうあるべきなのか。難しい問題だが、やはりプロの報道カメラマンならば、ありのままを伝えるのが一番なのであろう。お叱りを覚悟で言うならば。

 

 ただプロであれば、またそれで非難をうけてしまうことも覚悟しなければなるまい。一般のヒトでも水に沈む有人の車を救助するのは難しいし勇気も必要だ。もし見ていたのに救う行動に移せなくても、だれも非難はできない。

 

 というのも、いざ自分がその場面にもし出くわしたときに、100%救いに行けるかといわれても答えに窮することが想像できるからだ。ただカメラマンの場合は、職業としてお金をもらう立場でもあるので、そうとうな非難を受ける十字架を背負っている。

 

 それでもなぜ伝えるべきなのか。なぜなら伝えることで後世のヒトに教訓を与えるからだ。そこに報道カメラマンの本分があるのではなかろうか。

 

f:id:hanpeita1973:20180809235627j:plain

 

 この写真は「ハゲワシと少女」という題名で、報道の分野などに贈られる、権威ある賞「ピューリッツア賞」を受賞したことで知られている。カメラマンの名はケビン・カーターという。

 

 ケビン・カーターも各方面から「なぜ助けなかった」と非難される(少女は無事)。そして受賞した一か月後にみずからの手で命を絶った。多くのカメラマンが、きっとケビンのように常に良心の呵責を感じているのではないだろうか。

 

 そもそもいちばん罪深いのは、ふだんアフリカの子どもや飢餓について無関心なくせに、こういうときだけここぞとばかりにクレームを入れる一部の大衆であるというのに。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸がつづくかぎり、僕は君のそばにいる。