KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ウィル・スミスのビンタについて

 アカデミー賞の授賞式に出席していた俳優のウィル・スミスが、プレゼンターを務めたコメディアンをビンタするというアクシデントがあった。もちろんこれには訳があるわけだが。

 

 その訳とは、そのコメディアンが、脱毛症により丸刈りにしていたウィル・スミスの奥さんのことをジョークにしたからである。暴力がよくないのはわかっていても、人間なのだから手が出てしまうというのもわかる。

 

 むしろなぜこのコメディアンは、そんなことを口に出してしまったのか。こっちの方がわからない。出してはいけないものを出してしまったという点では、どっちもどっちではないか。肉体的暴力ではないのだから許されるのかというと、そうではない気がする。


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 人称代名詞というのがあるけれども、一人称が自分、二人称が家族やそれと同様に親しい人、三人称が赤の他人という風に置き替えてみよう。自分よりも家族や親しい人を笑いものにされると人間、心底腹が立つものである。

 

 笑いものにしている方にとっては、される方は赤の他人でしかないわけだし。二人称の関係と三人称のそれとは大きな差がある。だからジョークだったんだ、暴力は不当だとは簡単にはいえない。笑いというのは、実に大きな問題をはらむものなのだ。

 

 しかしこれ笑いものにしたコメディアンがかっこ悪いなと思われたのが、ビンタされたあとにジョークの内容を解説して言い訳してしまったことである。だったらさらにウィル・スミス個人に悪態をついてワルを演じ切った方がまだ恰好がついたのではないか。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君のそばにいる。